沖縄は大昔『琉球王国』という一つの国でした。

伊是名島は琉球王国と密接な関係にあります。

島で評判の働き者『松金』

伊是名 尚円王

『尚円王御庭公園』に
ある沖縄本島を指差す若き松金の像

伊是名島諸身の百姓だった松金は働き者でした。

耕していた水田はいつも稲がよく実っていたといいます。

ある年、島に大旱魃が襲い、下のほうにある他の田は干上がってしまったのに上にある松金の田んぼだけは満々と水をたたえていました。下の他の主たちは松金が水を盗んでいるに違いないと考え、ある晩松金の田んぼを壊し下に水が流れるようにしておいたそうです。

しかし、色男であった松金に好意を寄せていた島の女性たちがこれを聞きつけて松金の田んぼを直し、下に流れた水を元に戻したといわれています。

翌朝、水で満たされているはずの下の田はカラカラで上の松金の田は水でいっぱい。

水が逆さに流れたのか、というわけで松金の田は逆田と呼ばれるようになりました。

しかし、松金が水を盗んだと考えた島の青年は盗み水の罪を被せて殺害しようとしました。

身の危険を感じた松金は妻と弟をつれて沖縄本島に渡る事になりました。

島を出て沖縄本島へ

首里へ上がった松金は越来王子に仕え、王子の推薦で尚思達王の家来赤頭の役にありつきました。

尚泰久が王位につくと西原間切の地頭に任命され、45歳の時には国の財政と外交を担当する御物城御鎖側(おものぐしおざしのそば)に就任。

那覇の行政をも管理する要職につきました。

1460年尚泰久が亡くなり、次に国王となった尚徳と意見が合わず、54歳の時に職を辞め領地の西原に隠退することになりました。

伊是名の一百姓から琉球国王へ

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尚円王の御後絵

隠退した翌年、尚徳が亡くなり王位継承問題が起こった際、安里大親という老臣が金丸(松金はこの頃金丸と尊称されていた)を推挙。

こうして伊是名の百姓だった働き者の青年は1470年56歳の時に琉球国王となりました。

国王となった金丸は『尚円』を名乗り、以後400年以上続く、第二尚王朝の始祖となりました。